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【福島出張 DAY4】ラストサムライの地 会津若松

裏磐梯を出発して最初に訪れたのは会津若松にある”日新館”です。

会津若松城は戊辰戦争で最後まで政府軍と戦った場所で、この日新館から白虎隊が生まれました。
ラストサムライの地としても知られる場所であり、昔からこの会津に憧れがありました。

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日新館(以下HPより引用)

会津における教育のはじまりは、日新館創設より更にさかのぼること寛文4(1664)年、日本で初めて民間により創設した庶民のための学問所といわれる「稽古堂(けいこどう)」とされています。これに対し、会津藩初代藩主 保科正之は税金を免除し、大いに奨励しました。

江戸時代も200年が過ぎ、太平の世になってくると、今までの風習が変化し武士の気もゆるみ始め、道徳の退廃も顕著になってきました。天明2(1782)年から数年間続いた天明の大飢饉をはさんで、会津藩内でも様々な問題が出てきます。その諸問題を解決すべく、5代藩主 松平容頌の時、家老 田中玄宰は藩政の改革をするよう進言し、その中心に「教育の振興」をあげ、このことが日新館創設のきっかけとなりました。日新館の建設は、それは大変な作業でした。着工となってからは大司成 (現在で言えば文部科学大臣)、小司成、さらには日新館の教授、生徒たちまでもが、草鞋をはき協力しました。



多額の建設資金は、呉服商を営む大商人、須田新九郎が大半を負担しました。
そして享和3(1803)年、五ヶ年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校「日新館」が完成しました。

「日新館の教育目標は、人材の育成」の会津藩の方針のもとに、花色紐組(上士)以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。

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日新館の心得


10歳になると会津藩士の子弟は日新館に入学します。生徒数は1000~1300人ほど。授業は朝の8時から始まりました。素読の教科書は論語、大学などの四書五経に、孝経、小学を加えた計11冊の中国の古典を用います。(各家では、入学する前の6歳頃から近所の寺子屋などで素読をさせていました。)

低学年のときは、日新館心得の勉強があり、具体的に細かく心得を指示していました。


実際の日新館は戊辰戦争の頃に焼失してしまい現在の建物は復元されたものですが、当時の雰囲気がしっかりと残っていて、当時の武士達の姿がそこにある様な感覚があります。


ゲストハウスを運営していると外国人のお客様とお話させていただく機会が多くありますが、外国人旅行者が日本に来て触れたい文化のひとつに”サムライ”文化があります。僕も外国人旅行者に喜んでもらえるからと、”サムライ”という言葉を使い、伝えてきた部分がありました。
また、街のいたるところでも”サムライ”という言葉が溢れ、日本人=サムライという図式を勝手に作り上げていたのかなと。
しかし日新館に来て、会津藩の教えを学んだことで、”サムライ”という言葉だけが先行してしまっている事に気付き、文献や当時の教えの様子をみるともはや日本のサムライは絶滅危惧種の様な感覚さえ覚えました。それほど深く考える必要性はないと思いますが、自分の生活を振り返えり、日新館の教えや、ここで学んだ武士達の歴史を見ると今一度”サムライ”文化について考える必要があるのではないかと感じました。

日新館には各地方の藩校についての歴史についての記載もありました。
確認すると高松藩にも藩校がありました。


気になって高松に帰った後に調べてみると、いまの英明高校のあたりに高松藩の藩校があったそうです。

高松にもあったなんて全く知らなかったです。
もしかしたら新政府軍が新しい日本を作るためにそれらの藩校の歴史を途切れさせてしまったのかもしれませんが、それらの教えを持った人達が明治、大正、昭和の始めを生きてきたからこそ今の日本があるのは間違いないと思います。
国が衰退していく危険を感じ、会津藩5代藩主 松平容頌が日新館を創設した様に、国を良い方向に持っていく為には、ただしい教育が必要なのは歴史をみてもわかります。これからの日本を支えていく若者にどの様な教育をしていけるのか、またその為には自分たちがどう生きる必要があるのか、今回の福島の出張は多くの事を考えさせられました。